水色のなかま

このブログはフィクションです。物語の設定は主人公の紹介をご覧ください。

第5章 こもの屋へようこそ ⑤家長の威厳って必要?、やらねばならないことってなに?

水色のなかま)家長の威厳かー。

 

はい。夢かもしれないけど、今朝、こんなことがあったんですよ。

僕のところに死んだ父がやってきて、僕に言ったんです、お母さんを助けてほしいと。母は今、自分のカルマを目いっぱい受けて苦しんでいて、母には少し多すぎて無理だから、少し背負ってほしいと。

僕は、どう考えても助ける理由がないと思いお断りしました。そして、なぜお父さんが助けないの?お父さんが助けてあげたらいいのに、と逆に問いかけました。父は生前母に上げ善据え膳で立ててもらっていたし、両親はとても仲が良かったのです。

でも、その問いかけには父は答えずに、僕に母の魂を絡ませてきて、僕の体に母の魂の根をはらせました。とたんに僕は、多大な負荷と、母のものと思える思考を心に植えられ、気を張る感じとか、負けたくないとか、子どものそのままを認めるなんて将来を考えたら正しくないとか、そんな感情が僕に芽生えてしまって、これはやばいぞ、と思いました。

結局、この状態で子育てしたくないという強い意志のもと、僕は、母を助けることはきっぱりと断りまして、大きな負荷を感じながら、日常を平常心で過ごそうと努力しておりましたら、そのまま僕は、父が持っていたであろう僕の魂を、少しずつ返してもらう結果となり、母の魂は僕から少しずつはがされていきました。

僕は、父も、僕の魂を持っていたんだなーと思いました。

 

水色のなかま)家長とは、一体どうあるべきか。それは、正樹が日頃から自らに問いかけていることであり、自らの人生体験が、自らの歩みのヒントになっていると言えるね。

 

そうだねー。

僕は、父がそうだったように家庭において上に立ちたくないし、力を誇示したり、愛情を引き換えにして、子どもを思い通り動かすこともしたくないですね。僕は、子どものそのままが好きだから。

家長っていったい何だろうって考えます。

僕が一家の長であったなら、家族をよき道へ導ける存在でありたいです。もし妻により、家庭における自分の地位を上げてもらっていたとしても、妻の機嫌を取るために、子どもに無理を強い、自分が妻にしてやらねばならぬことから逃れるようなことはしたくないです。妻と協力して、子どもの可能性を伸ばすために心を配れたらいい。自分の都合で好きに使われたら、子どもがかわいそうだから。

 

水色のなかま)私から見て、家長制度とは、歴史的に見て古くからあり、大きくは権力者が中央集権国家を作るために、国民の末端まで国の権威が行き届くようにと、家庭は家長がよく取り締まるようにとされてきた、そんな経緯に基づいているようだ。

また、家長の社会的地位が上がることが、その一家全体の社会的地位が上がることともなり、家族全員の幸せのために、家長が外で、よい振る舞いやよい仕事ができるように、家庭で家族が家長を立て、休ませ、ストレスを解消してもらうようはからってきたようだ。

 

その経緯は分かるけど、今の時代にも、そのような家長制度は必要なのかな、僕は、実家で育ってずいぶん息苦しかった。

 

地の輪の神)正樹よー、ここでそういう話は愚問というものじゃ、理由は分かっておろうのぅ。

 

僕には、まだちょっと分からなくて。

 

(地の輪の神について↓)

mizuirononaka.hatenadiary.jp

 

地の輪の神)今朝の正樹の父の振る舞いを見てどう思う、なぜ父は、母の負担を正樹に渡そうとする、便利に使っていいわけがない、正樹は、もう別の家庭を作っている身なのだから。

それと、正樹が今朝の父の様子から感じたように、父は、母の気性の粗さを扱いあぐねいていて、生前、父は、母をなだめることにさじを投げ、負担を子どもたちに強いた。母の負担を軽くして、再び自分に尽くすよう画策した。父は、自分に都合よくなるように画策しただけ、自身では何の努力もしなかった。

その行動が、愛であろうか、やさしさであろうか、そして、死んで今もって、母に憑りつかれた我が身を救うために、母の負担を正樹に持ってくる、それが、正道であろうか、王道であろうか、一家の家長として、死しても責任逃れをする、その道が、愛であろうか、ワンネスであろうか。

正樹に伝えておく。正樹は、ありとあらゆる立場の者の気持ちや常識が理解できる性格ではある。しかし、事の本質を失ってはいけない。正樹の父は、一見やさしく清らかな心を持った人物に見え、実際は、ただ正樹の魂を所有し、その魂の力で自分の好きに生き、責任をも放棄し、死してもまだ自分のやるべきことに取り組めぬ、そんな人物であり、ワンネスには程遠い人物なのじゃ。

死してあと、父のやるべきことは、魂になった自分に、今まで以上にまとわりつく妻の意識と魂を感じても、その状態から逃げずに、誰かにそれを背負わすことなく、自らの責任と思ってその状態を受け入れることじゃ。

父と母は、生前、互いに共生依存の関係にあり、互いに互いを利用し合い、互いに互いを助けること、それを互いに破らないことを契約した関係だった。そんな現世での関係が、死してすっきり反故にできるわけがない。死してもその関係は続く、それが魂というものじゃ。

母は、今、おのれに返ってきているたくさんのカルマにおぼれて、死した父に訴えている、私を助けてほしい、と。それを父は聞かねばならぬ。・・・よいかな、人生は、生前で終わらぬ、死してもなお魂の記憶と互いの関係は続き、生きている間と思いだれかと不自然な関係を結べば、きっとこういうこととなる。

現世で、自らが不本意だったらその意思を相手に表した方がいい。生きている間だけと思って、自らが生きるために不本意な関係を続けていると、死しても逃れられなくなってしまう。いいか、もう一度言う、人生は、現世だけではないのじゃ。

 

最後のお言葉、よく分かります。僕は、死んだ後の方々の様子を何度も見たことがあるから。

何か分からない霊団と一緒になって、我慢を強いられている近所の方もいた。少し大変そうだなーと思ったけど、その状態が、多分、生前のその方の生き方と同じであって、その方にはそれが当たり前の環境なんだと思います。だから、それが幸せなのかもしれないね。

 

地の輪の神)さぁ、父にも、自分の幸せを満喫してもらおう。父は、生前、子どもらの幸せよりも母を選んでいたのだから。母のカルマとまとわりつき死後の世界を過ごすことは、父にとっては本望のはず、自身が選んだ道なのじゃ。

 

そうですね。たしかに父は選んでいた。

あ、僕は、今、父にカルマを返しています。・・・地に足つくために、親は自分のカルマを子に持たせ、その引き換えが無ければ、現世において子を地につけさせない、というやり方は、交換条件で愛じゃない。カルマを持っていたままでも大丈夫で、そのなりで、子どもをできるかぎり愛したら、かってにカルマはなくなっていくのにね。僕は、そうだったよ。

 

地の輪の神)そのからくりに、今、どれだけの人間が気が付くかなぁ。正しい・正しくないでなく、ただそれだけの地球、そしてワンネス、生きにくい者もいるだろうが、その仕組みは単純で複雑ではない、与えたものが与えられる、それだけなのだがなぁ。