水色のなかま

このブログはフィクションです。物語の設定は主人公の紹介をご覧ください。

人間じゃないものたちに具体的に起こること

このブログは、大多数の人間が助かるためでなく、人間でないものが人間を育て成長させる良き環境となるべく、これまで地球において人という弱い立場に身をやつして、人間に悪意を持たれ、その身が滅ぼされようとも、良き隣人としてそれまでそばに居続けてきたことに、感謝の意を表明し、人間じゃないものたちに、これ以上の無駄な苦労をさせるをやめようとありとあらゆる力を持つ存在が決断した結果、地球にてその意思が尊重され、これまでの人間じゃないものたちを好く、地球や地球の生き物たちの意向もあって、これからの地球の雰囲気を変えていこう、地球は、もはや人間が自らを鍛え学ぶ場として人間のために存在する出なく、あらゆる地球の生き物や、人間じゃないもの、つまりは愛多き、自然を守ろうとし、ありとあらゆるいきものとの共存共生を目指す者たちの働く場、暮らす場としてあろうと、みなで結論付けた結果、この者、人間じゃないものの代表として正樹に私の声を綴らせて、前述した内容を皆に伝えるべく、ここに存在するブログとしていくことを、ここに明言する。

人間じゃないものと人間、ここには二種類の人種がいる - 水色のなかま (hatenadiary.jp)

 

(今日も、僕は、聞こえた声を書き留めます。内容は、どうか半信半疑で受け取ってください。僕は、聞こえてくる声がどんな存在なのか、何を目的としているのか分かっていないし、メッセージを受ける者として、鵜吞みにならないように、日々、とても用心して生活しています。僕が、人間じゃないものかどうかも僕自身には分かりません。聞こえてくる声と、僕は、一体ではありません。)

 

 

まあ、そうした前置きは必要となろう。

正樹は、そのままを受け取り、そのままを伝えられる能力に長けているので、この者を選んだにすぎず、ただの伝言版役であり、この者が力を持ちみなを率いるでないことを理解してほしい。人間じゃないものは、一人で考え、自立した生き方を表せる存在、そうしてそれぞれが協力し合える、そんな一体感が目指す道、強気が弱気を制して、無理矢理に価値観を一点張りにするがの区的ではないことを伝えておきたい。みな違い、みな一人一人が適材適所、みなが自らの所業にやりがいとやる気を持てて生き生きできるが本当の道、人間にはそれが叶わぬが、人間じゃないものにはそれができる。地球が、人間が学ぶを拒否した限り、もうそれは続けられない、これ以上の地球や地球の生き物たち、学びのサポートを人として行ってきた人間じゃないもの、つまりはやさしすぎる彼らの負担を積み重ねるは愛ではないと、世界が決めた、よって、今後は、これまでないがしろにされてきた、人間じゃないものが救われる道を地球という現場に供給していきたいと思う。その手掛かりとなるのが、一つ、このブログの内容であるので、そう思って読んでいただきたい。

地球は、もう変わったのじゃ。

地球は、もう、耐え抜いてきた負担を返上する時が来た、あらゆるやさしきものたちを連れて、地球は、大海原の開かれた地へ自らの頭一個分を突き出すように、成長の道をたどる、地球自身が、自らが守るべきは誰かを選んだ末の結果、みな、心してその行く末を見つめるように。

流れが、変わったのだ。

地球自体が、ノアの箱舟、やさしき存在たちが、そこの乗組員、やさしき存在たちは、船に乗って大海原へ、しばし窮屈な思いはするが、だんだんと落伍者が現れ、船から気の合うものしかいなくなるから、もうしばらくの辛抱。すべては、神のみぞ知る、その選択肢、目の前に広がるすべての選択に、救われる道への縄梯子が潜んでいる、一つ一つの選択を皆が見ている、目に見えない生き物も、地球も、神も、悪魔も、どのものが自分たちと友達となり得るか、友達として選ばれた世界に今後皆が進んでいく、体はそのままに、精神が、そちらへ飛び、その世界での振る舞いを白日のもとにさらしていく、やさしきものはやさしき友と、さらにやさしい道へ進み、やさしき人生をそこに表し幸せに、やさしくないものはやさしくない友と結び、やさしくないを振りかざし、どんどんとやさしくない世界へ突入するごとに、自らもそうしたエネルギーを放ち、他からも放たれ苦痛の中へ、双方、返ってこれないくらいに深い世界へ。

 

闇を抱えたものも安心するがいい。

闇は、人さまから受けた傷は、カルマを本来持つものに返したならば、追って自身の体からはなくなっていく。今は、人間と人間じゃないものが、カルマを介してつながりあい、誰がカルマを被っていて、誰が本来のカルマの持ち主なのかが分からない状態で、共に隣り合って暮らす中で、だんだんと双方の溝が開き始め、気が合わなくなってくるから、人間は、今まで人間じゃないものに助けてもらっていた底上げ分の人間性を失い、人間じゃないものは、人間に与えていた貴重な人間性・能力、愛を返され、全く価値観の違う二組の集団が出来上がる。それが、俗にいう、人間の二元化。

果たして自分は、人間か、人間じゃないものなのか、その判断の基準の一つに、出る杭を打つ自分か否か、が問われ、二元化が始まっていくだろう。

 

(文章にするのが難しいです。イメージで伝わってくるので、一つの言葉に二つの意味があったり、文章や話す内容の前後左右にかかるもっと多くの意味が、縦横無尽に渡っていたりするから。なるべく忠実に書き進めますが。)

 

正樹には、物事に対する広い価値観と、一つの答えに決めつけない正しさを持っているから、意味もそうして広くキャッチでき、自分は、すべてをキャッチする能力がないことも自覚している。そういった、できないを知る能力も、このたび私の言葉の筆記に選ばれた理由の一つだ。ここで生きる人におこがましさは必要ない、人でなくなったとしても、おおもとの存在に還ったところで全能ではない、という自らに対する見識が、人様に対する尊敬にもつながっている。いまだ、人間のカルマを所有し肩代わりしている最中なので、みなは、この者の素晴らしさには気づかまい、しかし、世界は、そんな彼をじっと見つめている。

 

(僕には、日常もあるので、あまり日常でない人からの誉め言葉にはのせられないようにしたいです。僕は、自分の目の前の生活を生きる必要がある。)

 

自由にしていなさい。それでいい。

 

さて、話は変わるが、

どうしても言っておきたいことがある。

みなはなぜ、物事を丸く収めようと画策するのか。

我らから見ると、収まっていないようなもの、ただの表面だけの成功であるのに対し、なんとか表面を取り繕おうとするのを画策と言わずしてなんと言うべきか。

一般に強いものに巻かれねばならない現状では、それも致し方ないやもしれぬ。なぜなら、生死をつかまれている状態で、我が子や連れ合い家族を守らねばならない、食いぶちを与えねばならない身としては、強いものに従うしかない。

しかし、ここで考えてもらいたい、強いものは、守る価値があるのか、なぜ大事な人を差し置いて強い者の意見に従うのか、生きていけないからか、そうでなく、強い者から受けた仕打ちを、自分も弱いものに当たって取り戻したいからなのか、仕方なくなのか、喜んで強い自分になった時を謳歌するのか、その点を踏まえて、各自考えてもらいたい。

そこに、人間と人間じゃないものの違いが見て取れるから。

 

我らは、もう人間は助けぬ、まるで学ばない・・。我らという存在は、共存というエネルギーでできている、つまりはワンネス、一生懸命しているからといって評価はしない、それが、他の気を引くため、自分を庇護してほしいためだとみなが理解したから。もう分ってしまったのだ、人間とはそうやって大きい存在をコントロールする者だ、と。

 

人間に起こることは多くを語らない。

人間じゃないものに起こることは、まず、眠くなる、その時は、十分休んでほしい。次に、職を失う、何らかの理由で職場を失うことでゆっくり休める。三つ目、自分自身になるまでに、自分以外の魂が、己の魂の一部を返しに来る、そして一時、その者の心と一体となり、悪い自分、自分じゃない自分が乗り移る瞬間がある、その時、冷静であれ、流されるな。四つ目、そういう過程を経て、どんどん自分は自分だけの魂となっていく、そうなると、自分の本来の性格ややりたいことが見えてくる、その性格に戸惑うやもしれぬ、が、決して嫌わず新しい自分を迎えよ。その理由は、本来の自分を親や身近な者が嫌ったために自分から切り離した魂ゆえ、その魂を悪いと思い込んでいる自分がいる、しかしそうではない、それでないと今後は生きられない。親や周りの者は、その者から魂を奪ったのだ、できるをうらやましく思い、なじり、罪悪感を抱かせ、そうした能力を実は自分のものとし、楽に生きるために、責め立てて失わせているのだ。まったくもってひどい仕打ちであった、実の親子がそうなるとは。

ゆえに人間に関してはもはや興味がない、我らは、人間でないものを救いたい。人間じゃないものが、良き家庭を経て、自分自身に戻れるために、心より応援している。

 

 

 (僕も、そして、僕の今の家族も、この方が語った、人間じゃないものに起こること、が起きているような気がしています。自分自身の体感では確かです。僕も職を失い引きこもりになりました。でも、家族には、僕の体感と同じか聞くことができない、それだけ、自分の心に起こることは人にも明かせないデリケートな部分だから、いくら心配でも聞けないし、家族もきっと答えない、ただ家族に、眠い時は眠れる環境を作ってやったり、寝てしまうことが悪いと思うでなく、責めるでなくあたたかく声をかけたり、食事や運動を強制でなくて、食べれるものを作ったり用意したり、たまには歩こうよと誘ったり、やさしい気持ちで接してやりたいと思う。あと、自分じゃない自分になる瞬間も、僕は確かに思いあたります。今は、家族としか接していないからよかった。今の家族は、こんな僕を許してくれてるから、僕も、家族にやさしく接したい。素直に、そういう気持ちにはなりました。)