水色のなかま

このブログはフィクションです。物語の設定は主人公の紹介をご覧ください。

自分によいことが続く時、人にできることって2

 自分によいことが続く時、人にできることって - 水色のなかま (hatenadiary.jp)

(昨日は、とむ君の掃除を手伝いに行ったんだ。

結構進んで、我ながらすっきりしたし、弟さんの気になる部分の片付けもできて、とむ君の無事も確認出来て、あーよかった、と思い帰ってきた。

一つ、頼まれごとがあって、一緒に暮らしていた祖父の名義のままだった電話をとむ君の名義にして使うための手続きのことで、頼まれたことは調べてアドバイスできるけど、全部を自分がやらないようにして、できるところはやってもらって、やり方を体験してもらい、徐々に、とむ君ができるようになっていくような接し方をしようと思った。とむ君が日常を普通に送れるようにしていく、その橋渡しを、僕がやるんだろうな、と思っている。

さて、どんなふうにやっていこうかー。)

 

 

人には、必要なことしか目の前に起きぬ。

人に必要なことを、おまえがとってしまってはいけないし、助けない手はないし、で、どうやろう、という思惑にひたり、あれこれと考える。その間、とむ君のために一番よい道を選んであげたい、という意識が、愛となり、その身から出て、そうした愛の粒子をおまえと見た者たちが、異次元、現実、双方からやってきて、おまえと関わろうとする。だから、みんなやさしくて、愛が多い。人のためと思って、実は、自分のためになっている。その放出した愛が、自分を物語り、そこにふさわしい似た者たちが集いくつろぐようになっていく。当然、合った者同士の中で自分もくつろぎ、そうした温かい雰囲気が、相乗効果で、他に蔓延もしていく。そうした好循環が、おまえから発せられている。もちろん、愛ある者のみの周りでは、多かれ少なかれ、そういった気が充満し、発生し、世界を作る源となる。

 

一つ言っておかねばならないことは、

とむ君自体が、おまえの愛と釣り合わなくなった時、うまく取り入り、おまえを利用してきた時、自分の再びの栄華のために、おまえを踏みつけて、再びおまえから愛の魂をそぎ取り、自分があたかも愛だとふるまった時、つまりは、愛が発せられない、感謝もない、頭だけの計算づくの人物だと実証されたとき、とむ君はおまえから引きはがされて、地に落ちて、一生報われない日々を送ることとなろう。

 

(ふーん。そういうこともあり得るのですね。)

 

(僕から質問したいのですが、とむ君は、いったい何者なんですか?芸術家で、つまりは巫女や神主の能力で、絵を描いてきたような気がするんですが、役目が終わったから、そうした一段高い存在から、普通の存在へと戻されつつあるように思えるのですが。それだったら、もう絵で儲けることをやめて、いったん日常生活を主体にとらえるよう助言したほうが、今後の精神安定と、次の仕事につながる道が開けるように思うのですが、どうなんでしょうか。)

 

だから、それは、自分の次の道にあこがれと好奇心を抱き、うきうきと次々門を開いてきたおまえとは、少々勝手が違うのであって、これまで祖父に守られてきて、面倒なことを全部やってもらい、ひたすら絵に没頭出来てきたことを幸せに思わず、当たり前と思うからこそ、引き続き誰かに支えてもらわないとと、人のよさそうなおまえにターゲットを移して口説きにかかっていることを、我らはよく見て取れる。そういうとむ君が、おまえから引きはがされるのも時間の問題であり、あとは、弟さんととむ君が、一緒に、自分が抱えたカルマを外しにかかっていかないと、双方浮かばれないんだ。二人は、一生関わるカルマがあるから、そのために割と元気にこの世に君臨する、その一方で、おまえは、少ししたらこの者らと縁を切って、一人で独自の道を行き、家族をいざなっていく、そんな使命をおびているので、覚悟しておくように。

 

(とむ君と弟さんは、なんなんです?)

 

つまりは、犬猿の仲、二人譲らず来た、そんな日常を変換しない限りは、二人は報われない、おまえが何をしようと無駄、争いはなくならない、間に入ることもあるが、入ること自体が、というか、間に入るべく種がどんどんなくなっていくから、自然と間からは逃れられる、そうして、おまえたち家族は、独立した道を行き、二人のカルマが落ち着くのを待ち、しかし、それが不可能でも悲観せず、自分たちの歩みを楽しんでいけばいいのだ。

 

(はぁ・・。)

 

おまえは、あくまで栄光の道、あまたの愛ある種族の進む道に抗ってはならない。そのうち、二人も目覚めるために、道筋に光を落とすのを忘れるな、あくまでも皆の道しるべとして在れ、そのままの自分であれ。

 

(えっと、はい。・・え?ちょっとわからない事柄もありますが、とりあえず、了解です。)

 

子どもが元気になってきただろう。おまえが進むごとにそれだ。やる気を出していく、生活に活力を見出していく。それを見守りながら、我が道を行くのだ。我が道を行けば、子どもは大丈夫。

 

(・・僕は、自分と僕の母の違いを痛切に感じています。母は、僕を愛してはいませんでした。僕は、自分の子どもたちが、本当に好きです。個性が面白くて、そりゃよその子に比べたら幼い部分もあるけど、面白くて面白くて、世間の評価はなんのその、本気で笑ってじゃれ合っている感じです。そんな気持ちだから、それがきっとそのまま伝わっているんだろうなって思って、我ながら、自分はえらい!と自画自賛しているんです。笑)

(子どもが好きだから、毎日楽しいし、充実しています。ちなみに、犬のことも可愛くて好きでたまりません。ちょっと前までは、僕、犬が無駄吠えするのを怒って叩くこともありました、叱らないと、と。でも、最近は、我が家を守ってくれている、狛犬のような存在感を感じていて、すごく感謝しているんです。犬の老後を、やさしく見守りたいんです。ここに住む時から、ずっとそばにいてくれた。)

 

 

”愛だな。それでこそおまえ。

おまえが呼べば、俺たちはいつでもくるし、いつでもそばにいてやるんだ。こうしてブログに出ることだって、朝飯前だ。”

 

(おう、分かった。ありがとう。)

 

(また、異次元の生き物のこと描きたくなってきた。笑)