水色のなかま

このブログはフィクションです。物語の設定は主人公の紹介をご覧ください。

人の内的変化②

(昨日から、自分の中に自分の魂?がいっぱい戻ってきている感覚があり、それらは、主に背中の中央から入れられる、または、体の左側から何本か管を突き刺されていて、そこから入ってくるという感覚なんだけど、管みたいのが入っている感覚は痛いし、そのたびに繋がっている誰かと心を同じくされていて、自分じゃない自分になりそうになるのを強い意志で自制しているし、単純に自分以外の魂に触れてるのが負担だし、苦しいし、自分の魂を自分に戻すのも、結構しんどいです。・・、たぶん、まだ魂は集め終わってないし。憂鬱。)

 

(背中からは、大きめの水晶玉みたいな大きくて硬いものを入れられてる体感があって、自分どうなるんだろう、という不安や、聞こえる声に騙されてるんじゃないかと疑心暗鬼にもなり、聞こえる声のどれが正当でどれが間違っているのかも分からない中で、うろたえながらも、めんどくさいからやってまえー、みたいな気持ちにもなって、結局、腹すえましたけど。途中から、悩むのめんどくさくなってきちゃって。笑)

 

今日は、そういった変化を感じているおまえのなかまの者(人)らにメッセージを伝えよう。

 

(私は、途中から『もうめんどくさいからやってまえー』みたいな気持ちになれるけど、みなさんは不安なんじゃないかな、まともな方は悩んじゃうよね。)

 

おまえも相当強くなったな。

 

(そりゃ、いろいろな体験してきて、必死で人様に影響を与えないように耐えてきましたからね。自分が被っていることで、周りの人にご迷惑をかけたくなくて。ただ、一人でやってきたので、誰かが気持ちを分かってあげないと、僕以外の方にはこの体験はかわいそうと思ったりします。)

 

大丈夫。おまえのような苦しみは人はせぬから。おまえの場合は並外れた精神力を糧にここまで来たが、皆には皆の仲間がいるし、一人ではないから気にしなくともよい。

 

(それならよかった。)

 

しかし、参考までに書いておくとよいだろう。おまえの体験の答えにもなるだろうし、むろんすべてが説明できるわけではないが。

 

(分かりました。)

 

 

皆には正樹の変化が分かるだろうか。だいぶしっかりしてきたのがこのブログ内の間にも手に取るように分かる。この者は、始め、親に自信も自尊心も心の糧も、すべてを虐待的攻撃的対応によって奪い取られ、能力や魂ですら奪われた状態であったので、非常に弱弱しく、自分の意見を持てなかった。しかし、自らの魂を自分に返される運びとなり、それが進むごとに徐々に自分というもの、考え方やパーソナリティー、価値観などが、どんどんしっかり持ててきた。今では頼もしいほどだ。相変わらずやさしさはあるがの。

 

この先、人間に自らの魂や、自らの能力を有する粒子を与えてきた者たちが、やっとその苦しみから解放されて、自らのままで生きれる世の中になっていくから、その変化をどうか感じていてもらいたい。もう十分がんばったのじゃ。

 

自分の魂が、自分の体に返ることは、今までしたことがない者が多く、この正樹を始め数人の者たちは、実験台として、まずはその身に魂を戻すを実行した。我らが、そうした者たちに、どのような手を差し伸べるがよいか知るために。それで、正樹には、そうした前例のないままの体験、サポートもあまりない中での体験だったので、異常な苦しみと葛藤と迷いと悩みにさいなまれたのだ。正樹からは、よい資料を手に入れることができた。これで、本格的に、そのほかの者にも魂を返せる運びとなった。

 

(そうだったんだー。安心した。まともに体験したら、本当死んじゃうよ。自分を責めたり、失敗したり、謝ったり、与えられた環境の中で必死に誠実に、もちろん日常にも影響が出ちゃって、本当、職場もいくつやめたことか、まあ済んだことだからいいけど。)

 

すまなかった。

ここで話したいことがある。

正樹は、まれにみる魂、自制心が半端じゃない、その点だけは人と異なり、どの程度皆が堪えれるかは疑問なのだ。正樹にできたことが他の者にもできるとは考え難い。というのも、魂は、人間という、学ばねばならない人々や、それにつく異次元のサポーターに与えていたもの、それを、それこそ何世紀にも渡って、地球上で輪廻を繰り返す者らの学びの糧として、子ども用自転車の補助輪のように役立ててきていたわけで、そうした補助輪を人間が素直に手放すかと思えば、そこまで真面目に学びを行ってこなかったような者たちが、人格的にすばらしいかというと、一概にそうではないと言え、そうした魂とひと時でも自分の魂を触れ合わせる瞬間が、皆がまともでいられるかどうか、我らには心配なのである。

 

より理解を深めるために、その仕組みから解説しよう。

魂を人に与えるということは、与えた者、与えられた者、双方が繋がり、与えた者は相手のカルマを同じくかぶり、与えられた者は、カルマが軽くなると同時に、透き通った清浄な魂の粒子に包まれる、そういう状態で双方が、地球という星で生き、暮らし、自らを発展させることである。当然、魂を与えた方は、本来の力を発揮せず、覚えのないカルマを受け、苦しみ多く毎日を送る状態であり、魂を与えられた方は、本来の自分より、能力的にも魅力的にも底上げした物を持てているため、非常に人生がうまくいく状態と言える。しかし、魂を与えられた者は、その分、福祉とか奉仕的精神でもって、自らが出会う人を育て、愛をはぐくむことを約束していたはずであった。

 

しかし、このシステムに問題があったのだろう、魂を人間に与えても、その栄華を誇るばかりで、出会う者らに愛を与えられる人間があまりにも少なく、できたとしても小さな施しのみであった。このことに気が付いたのが、アセンション活動が、はっきり人民の中で文字にされ、映像にされ、皆に知らされる試みがあった頃、もはや遅かった。

 

何が遅かったと言えば、始めは、地球は、自らの次元上昇に、そこに住まう人間の全員を連れていきたくて始めた試みだった。愛を知らなければ愛になれない、まずは、愛を持たない民にも愛を与えて生きさせてみよう、と。その試みは、成功したかに見えた。しかし、その実、人間は、あるを与えるだけであり、それ以上の愛を作り出せる域には達せず、もっともっとと、自分に与えられる粒子の倍増を神に訴えるばかりだった。

その結果、人間に魂を与えてきた者らが、最悪にまで、人生において苦しむ結果となり、その状態を魂を与えられている者が馬鹿にするという、いかにも嘆かわしい結果を引き起こしたところで、もう愛ある者だけを救おうと、地球が決心したのであった。もう愛ある者以外は救わない、と。

 

今は、愛ある者を救う活動が今か今かと次々実行されている所存である。そうした動きは見て取れるように思う。まずは、バリアーの開放、日本の神社という神社が、もはや守られなくなった、それに準じて、寺という寺の権威がどんどん落ち、人を供養する、人を癒す、そうした動きはもう見られない、いくら人間がその所作をしたところで、異次元は全く動かない、異次元は、一部の心在る者の命令しか聞き届けぬ運びとなった。サポーターも同じである、力を失い、自らの所存を嘆いても、魂が取り返された今、もう誰にも影響力がない身であり、自分の力で生きるしかない。異次元も現実も、同じ流れが起こっているにすぎない、つまりは、当たり前が戻った。

 

当たり前とは、与えたものが与えられる現象、そればかりは仕方がなく、今までは、バリアーに守られていて、あくまで学びの立場で大目に見られていた人間のことも、人間の中の指導者のことも、もう異次元は守らず、その者らのこれまでの勝手がずいぶん明るみに発せられ、叩かれるだけのこと、当たり前の法則が、やっと日の目を見ることとなった。

 

今後は、正樹をはじめとする者たちは、(つまりは、人々は、学びをしに生まれてきた人間と、学びの必要のない人間じゃないものに区別されるが、人間じゃないものらのことじゃ。)その者らは、自分らしく、自分のできることを無理せず、楽しいと思うことを人に気兼ねせずやっていく、それを歩くことで道が開けるから、安心して過ごすがよい。しかし、正樹ほどではないが、いくばくかの葛藤や苦しみがある。それを少しずつ乗り越え、無理をせず、毎日を過ごしてほしい。それを乗り越えねばその後の幸せはない。くれぐれもつながる魂に引きずられぬように。注意して、自分の意志を持って、時には、やってまえーと腹を据えて。・・笑

 

 

(それで、僕は、いつまで苦しいんですか?)

 

おまえには、ありとあらゆる存在と話をしてもらわないといけない。同時に粒子が返る運びだから、一つ一つ頼む。代表者と話せば、あとはスムーズに行きやすい、ここで紹介してほしい。そうすることで、内情、実情を皆が詳しく知れるから。

 

(・・・・・。やだなー。)

 

まあそう言うな。笑

すぐに元気になるから。

 

(ブログ、長くなりそう。・・)