水色のなかま

このブログはフィクションです。物語の設定は主人公の紹介をご覧ください。

人間じゃないものの使命とこれからの道

前回の続きになるけれど、人間じゃないものはこれからどうなっていくのか、そして、区別において、人間とされているものたちは、いったいどうなっていくのか、それと、双方の心得みたいなものを書いていこうと思う。

 

書く理由は、多分、僕の役割がそれだからだ。

今まで邪魔されてきたけれど、(人間と自分の魂を分かち合って暮らしてきたから、)今まで僕は、そのままの自分の力を思うままに発揮できなかったけど、きっと、役割は始めから、決まっていたんだ。・・

 

人間はこれからどうなっていくのか・・

人間は、今後、修行の頻度が今まで以上に増していく、修行の強度も増していく、これまでそばにいてくれたやさしい存在、八つ当たりできる存在、何でも許してくれた存在、いつでも負けてくれた存在がいなくなってしまうから、それまでぎりぎりで自分の地位や思考的レベルを保ってきて、それなりに社会的評価を得てきた人は、一気に自分のそれらのレベルの降下を体験するだろう。

地位も奪われ、友達とも気が合わなくなり、怒りを当たれるような気楽な存在ももちろんいない、その代わりに、今まで自分が箸にも棒にもかからないとさげすんで馬鹿にして見ていたような人々が、脚光を浴び始める様子を目の当たりにする。

そうした人たちを、一度は蹴落とそうと、今まで通りの虚勢をぶつけたところ、最悪なことに、自らが、自らの社会的地位や立場や存在感の有り様に、終止符を打つ結果となる。みんなから、社会から、歴史から、自然から、ありとあらゆる世界から非難され、そこにいられなくなる。そこ、とは、家庭や会社やコミュ二ティーグループから。

そして、世の中は、テレビや遠い田舎や外国の話で終わらず、愛とやさしさがない者が、今後は、重要な地位や立場について人様を采配することは、できなくなっていることを実感することとなるだろう。

その後、自分はどうするのか、が、これまで人間じゃないものから力の一端を借りながら暮らしてきた人間が、責任者なりなんなりの重要な立場を務めてきた者が、自ら考えて、自ら生き方を模索し実行していく、つまりは、ここからが本当の人生と言える日々が、その後に続いていくだろう。

 

人間じゃないものはこれからどうなっていくのか・・

自らを知るごとに、自らのそのままがみんなに認められていく。みんなが自分の一言を待ち、自分の意見を重要視してくれるようになる。自分の悪いと思っていたところが全部長所となり輝き始め、自分の思うように事が運び、それまで一人だった者によい友達ができ、自らを守る生活から、世界を変えみなとともに羽ばたけるような活動を、具体的には愛ある、愛を目指す、それぞれが何かをいつくしむような人とともに自らも自分の持ち味を出していく。それ(自らの持ち味)を披露し、さらに広げ、発展させ、同じくそれを発展させてきた人たちと互いの歩みを喜び合い、助け合い、認め合い、そういった心の活動を踏まえた実際の活動、啓もう活動、ボランティア活動、宗教をも含むすべての活動が、これまでの前例になどることはなく、愛でない部分を次々改め、互いを認め合えるような、つまりは敵がない状態に徐々に徐々に進んでいく、そういった、適材適所を認め、それぞれの関連性を重要視するような認め合うような、つまりはワンネスと言える世界が、次々と段階的に大きくなる様を、自分の目の当たりにし、自分もそこの中の中心にいつも沿えらえる立場となり、光を見る者でなく光を発する者となっている自分を知るだろう。

 

ここで、ポイント

実は、世界はだれかを蹴落とそうとしたり、誰かを救おうとしたりしないものなんだ。そこに恣意的な力はない、全部自然の流れで、地球が愛に向かうエネルギーを出すごとに、そこの上に暮らす全てのものが愛に向かっていく途中で、愛のエネルギーになり切れない者たちが、元気をなくしたり感情を荒立てて流れに背きたがったり暴れたりし、その時自らの出す負のエネルギーで自らの存在を汚し、自滅していく過程があるだけなんだ。

その中で、人間は、この流れに乗るために修行を重ねてきたが、半分は、人間じゃないものの力に助けられてきたものを、今その力がどんどん失われて自分自身だけとなって、その時に、どれだけ今までの修行の成果が見られたかを試された時が来たと言えるかもしれない。

一方、その中で、人間じゃないものは、この流れに乗り、人間の影響を受けなくなっていく自ら自身にどんどんなっていき、次々と、今まで自分が人間を助けていたせいでできなくてやれなかった活動を達成していき、それなりの地位につき、という道を歩む一方で、人間の立場的に落ちぶれていく様子を垣間見ることはあるけど、それをもう今後は助けない意思を固め、その人間の持つ底力をただ一心に信じて、待つ姿勢を貫けるかどうかに、世界の平和はかかっていると言える。

 

僕は、こうして書いてみて、言うは簡単だけど、人間じゃないものの道を歩むも結構大変だと思う。

人間じゃないものは、自分を卑下して謙虚になりすぎている場合が多いため、自己否定感がどこかあって他人ばかり立ててしまうから。そんな自分とさよならして、自分に自信をもって、自分の考え(気持ち、感性、感覚、価値観)にそって自らの活動を行えるかどうかは、どこか修行とも言え、本当の愛は人間を助けることなのか、だとしたら、自分の助けたい相手を存分に助けて幸せにしてやるのが愛じゃないのか、助けたい人は愛に満ちた人だとしたら、腐れ縁のような関係性の人を習慣的に助けてきた過去を捨てて、多少の風当たりはあってもやさしい人、愛ある人、自分が助けたい人を、権力に従ってきた過去を捨てて選べるかどうか、人がいいから目の前の人が困っているのを捨てておけない、その性格に付け込んで自分を利用して愛でないものを広めようとしている人を、また繰り返し助けてしまうのか、自問自答の日々がそこに生まれるのではないだろうか。

 

ブログを始めた当初は、こんな内容のブログを書くつもりはなかった。だけど、書くごとに、自分の中の自分でない部分が取り除かれて、どんどん楽になっている気がする。

誰かに流されるんじゃなくて、自分で歩いていくし、お膳立てがあるわけじゃないから、自分で選んだことを実行していくほかはないと思うよ。

人間も、人間じゃないものも。